アヤコの日記

母として、教員として、一人の女として思う・考えることを、つらつらと。

「考える」を考える。

『自分のアタマで考えよう』(ちきりん 著)を読んだ。

 

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

 

 

あとがきに、受験勉強のときに数学の解法を暗記したちきりんさんの話が載っていた。「自分で解法を考えずに、暗記したほうが早いと思い、ひたすら解答のページを読んだ。」という話。

 

中学生1年生の数学の時間を思い出した。「-6×(-5)=30」という考え方が、どうしても腑に落ちなかった。数直線を使っても、「-5をかける」という意味が分からない。その時に自分の中で「マイナス×マイナスはプラスになるんだ、と覚えてしまおう。それが早いじゃん!」と納得させた思い出。それ以来、未知に出会った時は、「調べて覚える」という手段を使う、というやり方で大学3年生まで過ごすことができた。

 

しかし大学3年生になり、ゼミに入って学ぶようになったときにその手段がまったく通用しなくなってしまった。「自分で研究テーマを設定せよ。そこからどう考えて、どう結論づけるのか。根拠は何なのかを明らかにせよ。」という卒論にむけてのゼミ。

 

小学校卒業(12歳)から大学3年生(21歳)まで、約10年間。「考える」ということをまったくしなかった私は大混乱になった。「ど、どうやって考えるの????」学校生活、受験、友達との付き合いの中で、「考える」ことは時間の無駄であり、なくても全然過ごすことができたから。「私の考え」よりも素晴らしい「知恵」は世の中にいっぱいある。それを調べて覚えて、応用したほうがずっとずっと効率がよかった。

 

大変幼稚な頭で、ぐるぐる考え、とりあえず卒論を提出した。もちろん「どうやって考えるか」という術を知らずに。

 

そして社会人になり、教員になった。ますます時間は減っていき、「考える」時間よりも「作業をする」時間がどんどん増えていった。○つけ、生徒指導、研修・・・。授業プランも私が考えるよりもずっと素晴らしい授業案が世の中にたくさんあって、それを真似すればよいことだった。生徒指導、学級経営、校務分掌だって、先輩や本に聞けば、それこそ山のような実践例が出てくる。「自分がやって、上手くいくかは別として、上手くいかなかったら他のやり方を真似すればいいのよね。さあ、次!次!」

 

 

 

そして社会人10年を超した今、やっと「調べて覚えて、応用する」やり方の限界が見えてきた。大変気付くのが遅くて情けないが、しょうがない。機が熟したと思うことにする。35歳になって、仕事でも家庭でも自分自身のことでも、とにかく未知のことが多すぎて、それを調べるには膨大すぎる情報があり、峻別するのはAIのほうが優秀であるということがようやく分かってきた。「調べて覚えて、応用する」やり方は、人間じゃなくても基本、できるんじゃないかと思う。

 

「考える」ほうが優れている、のではなくて「考えなければ」という切羽詰まった感じと言ったほうがしっくりくる。「考える」ことは、人間ができる一つの可能性なのだと思う。そして、「考えて、自分なりに出した答えを基に、行動し、フィードバックする」ことが限りある人間の時間と能力の有効な使い方なんだろうな、と思うようになった。

 

文章を見て分かるように、私の考え方の基本は「新しい経験や情報の獲得→過去の経験や得た情報との比較→相違点や共通点の洗い出し→結論」である。というか、今はこれしかできない。「考え方」のいろいろなパターンを創り出すためには、考え続けるしかないだろう。

しかも「考える」ことは、脳内でできるものかとも思っていたけれど、椅子に座ってじっと考えるのは、私のような考え初心者には集中力が足りない、ということも分かってきた。何かに表さないと、考えが進まず、ぐるぐると回転してしまう。私の場合は、紙とペンで図やメモを手書きしながら考える方法か、このように文章をキーボードで打ちながら考える方法、そして人と話しながら図に落とし込んでいく方法の3つ。

 

今日も授業中、宙を見てぼんやりしている子どもがいる。もしかしたら、あの子は私ができなくなった「脳内だけで考えること」ができている子かもしれない。